2 代目会長 (00-01年)川島良介

チョンブリ・ラヨーン日本人会 回顧録

小生2000年、2001年と会長をやらせて頂いた川島です。拙い文章で汗顔の至りではありますが、当時の活動の様子等について書かせて頂きます。

小生まだ当地にて(バンコク在住)にて一応現役に社業にて従事しております。

小生は二代目会長ということで拝命させていただきましたが、実際は三代目であります。二代目の方の時代に、会そのものが理不尽に批判を受けるような出来事(某日系週刊誌にも載りました)があり、二代目会長は自ら仮の形式のままで(本人は立派な方です)小生に引き継ぐ形となりました。

当時は、“チョンブリ・ラヨーン日本人連絡会”という名称で、小生の時から会長2期(2年)となり、その他役員の方々もそれまで年毎に交代であったものが、前任者との引き継ぎが結構大変だったため、各部会の方が他の約半数が一年ずつ延長して協力していただきました。

現在は当該会も大変発展を遂げられており、会長様はじめ各役員の方々のご苦労は大変だと思います。

チョンブリ・ラヨーン県に各種企業が進出されるようになってきたのは1995年頃からと思います。現在は相当数の企業が出てきておられますが、小生が会長職を仰せつかっていた当時と比較しても、約3~5倍の企業数になっていると思います。

小生在任中の最も大きな事柄としては、現在の日本人学校の前身となる日本人補習校を立ち上げたことでしょうか。日本人学校は周知のようにバンコクにしかなく、就学年齢(中学まで)の子供さんをお持ちの方にはその教育に大変苦労されていました。(バンコクに妻子を置いて単身赴任されている方、インターナショナルスクールに入れている方、個人的に家庭教師をつけている方等々。)故に今後ますますこのような方々が増えることを予想して、教育部会を設立し土、日曜日だけ、主要科目のみを教える補習校を設立しました。ある程度軌道に乗せるまでは、会員の奥様方の力も借り、先生方はバンコクから通ってもらい(当然ですがアゴ、アシ、場合によっては宿泊付き)教室もシーラチャーのタイ人学校の教室を3室借り受けました。(当時の校長先生が大変素晴らしい方でした)一応小生初代校長ということにさせられましたが、校長専用に修身の科目もあっていいのではないか、などと言われましたが、皆さん大変熱心に活動に協力してくださり、2年目からは日本政府からの援助も受けられるようになりました 。

これに関連して感銘を受けたことは、当時チェンマイ、プーケットにも同様の教育を全くのボランティアというよりも手出しで行なっている方々がおり、それも授業を受ける子どもさんたちが、ほとんど無職(?)の人達の子供さんばかりで、ボランティアの方々が出かけて行って(捜しに行って)最低限の教育を受けさせるよう説得していた、ということです。このことは当事者の方々以外にとっては大変ショックであり、また、これらのボランティアの方々には本当に頭が下がる思いでありました。

これは、バンコクの日本人学校で初めて、領事館の方も出席して、日本人子女の教育状況に関しての鍵を持ったことで判明したことで、領事館の方々も驚かれて早速援助の手を打ってくださいました。その点境界はほとんどが企業の方々なので、一定の方向付けは楽であったと思います。

また、会員の方々向けの、ゴルフ、忘年パーティーで始まった集まった寄付金をタイの貧困の子供さん達に某中学校の講堂で寄付式を行ったとき、約150名ぐらいの小、中学校の生徒さん達が集まり、その一人一人に授与を行わせて頂いたのですが、彼らにとって500バーツ1000バーツがいかに大変な値になるかを身をもって知らされました。(我々日本人駐在員にとって、その程度の額は、一回の食事代、飲代で消えてしまう程度のものなので…大いに反省させられました)

その他色々の事がありましたが、役員の皆さんが本当に身を粉にしてその役をこなしてくださり、種々の行事も少しずつ根付くようになっていきました。

現在、新規企業が急速な勢いで増えてきています。その分種々のご苦労が増えてきていることと思いますが、今後の益々のご発展を祈りあげる次第であります。

以上